旋律を書く、ということ。

5月ですが、もはや夏と言ってもよいほど暑い日が続いています。皆様お変わりありませんか。

最近私はアメリカのポップソングの作曲家でミュージカルをたくさん作曲したアーヴィン・バーリン(1888-1989)という人の歌が好きであれこれ探して聴いています。ミュージカル「アニーよ銃をとれ」やホワイト・クリスマスの作曲者といえば「ああ」とうなづく人も多いでしょう。彼の書いた旋律はジャズ・ミュージシャンも好んでセッションのテーマとして取り上げています。同時代の作曲家で彼と同じユダヤ系ロシア移民のジョージ・ガーシュインをして「アメリカのシューベルト」と言わしめたほどのメロディ・メーカーです。

さて20世紀の作曲家でメロディ・メーカーの名に恥じない存在と言ったらバーリンやガーシュイン、ニーノ・ロータ、ミシェル・ルグラン、フランシス・レイ、ポール・マッカートニーくらいでしょうか。あとラフマニノフも一応、20世紀の作曲家に入れてよいのかな。・・・坂本龍一や久石譲さんも偉大で私は好きだけれど、この二人をメロディ・メーカーと呼ぶには前出の人々はほとんど神の領域に位置しており、申し訳ないけど質量ともに敵いません(特に坂本教授はもともと旋律を積極的に書く、という気がそのキャリアの最初からなかったのではないか、と作品を聴きながら常々感じています。少ない音素材をひっくり返したり裏返したり入れ替えたりして何度もリサイクルしている、という印象で、そういう意味では本質的にミニマリストです。しかし天才には違いありません)。

20世紀後半のいわゆる芸術音楽(まあ、現代音楽のことですが)の主流派は旋律を過去の遺物と否定してきました。そしてその代わりに人々の歌いたいという欲求には映画音楽やポップ・ミュージックの作曲家(あるいはシンガー・ソング・ライター)が応えるという構図がいつしか出来上がりました。そして芸術音楽(この言い方は好きではありませんが)の分野で明確な旋律を書くと「映画音楽みたいだね」とか「劇伴をやったら?」と言われるようになります。こうした発言の背景には映画音楽やポップ・ミュージックに表面的には敬意を示しているふりをしつつ、実は享楽的で現代音楽より一段下がったもの、という意識的・無意識的な蔑視があり、現代音楽こそがピラミッドの最上位である、という、とんでもない勘違いがあります。私はこれは大変、不健全なことだと思っています。

しかし武満徹さんが「ほんとはジョージ・ガーシュインみたいな作曲家になりたかった」と述べたり(じゃあ、なんで書かなかったの?と反駁したくなりますが)、ポーランドの作曲家ヴィトルト・ルトスワフスキが晩年、武満氏に「われわれ作曲家はもっと旋律について真剣に考えるべきで新しい旋律を生み出す努力を惜しむべきではない」と語ったりと、旋律について真摯に取り組む作曲家が少なからず存在します。

私は前述のビッグ・ネームたちの足元にも及びませんが、やはり、旋律・・・しかも美しい旋律、さらには過去の繰り返しではない新しい旋律を書く努力を怠っていません。結果的に表される形がどんなものであれ、歌う、ということはやはり音楽の基本だと思います。

とは言え、時代は変わりました。ポップ・ミュージックと現代音楽の垣根は無効になりつつあります。これからは歌いたいことを歌いたいように歌えばよいのです。Singing in the rain!