約束の地?

先日、年上のある知人が旅先からハガキを書いてよこした。読んでみると、一言「人はみな、さすらい人。約束の地を求めて・・・」とある。旅の途中だから、ついセンチメンタルになってしまったのだろうけど、いい年をしてずいぶんと気取った、高校生みたいな事、書くなよ、と笑ってしまった。本人はジョークを言えるような人ではないので、案外、本気でそう思っているのかもしれない。私はユダヤ教徒ではないし(彼もユダヤ教徒ではないと思うよ)、正直私にはわかりません。今日、さすらい人の気持ちを本当に身に染みてわかる人は、例えば故郷を戦乱で追われ難民となっている人たちだろう。今日の日本で安穏と暮らしている人々にさすらい人を名乗る資格はない。気取るのもだめだよ。

いや、そうじゃなくて精神的なことを言っているのだよ、とその知人は言うかもしれない。もちろん最初からそのつもりだろう。いや、だからこそ、半端な文学青年みたいなこと言うなよ、と思う。実は告白するが私も昔、まだ若くて未熟でコンプレックスの塊で、そのくせ、どこか思い上がったヒヨッコだった頃、「約束の地」云々を口にしたことがある(恥ずかしい思い出である)。その時、ある人から「約束の地」とはどこかにあるのではなく、自分で作り出すもの、と諭された。どこかにないかな、と外をキョロキョロ探しているうちはたぶん、見つからない。自ら作り出そうと覚悟を決めた時、それは見つかる・・・というより、まさにそれは創造される。

「約束の地」という表現にこだわって言うと、私は既に「そこ」に到達している。いわゆる「自分探し」の旅はかなり昔に終わり、旅は次の新しい次元に移行している。いまは帰るべき自分の(想念上の)大地にしっかりと足をつけ、そこに種をまき、作物を育てている。

かつて私を諭してくれた人は正しかった。感謝。