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もの思う葦

季節は梅雨に入り、今日の関東地方はなかなか強い雨風です。

今年の初め頃にちょっと体調を崩してしまい、いろいろ予定していたことを一度全てキャンセルにせざるをえませんでした。最初のうちはそれがかなりのフラストレーションになりましたが、これはこれでしかたがありません。これも必然、と一旦仕切りなおししているところ。それで、そうこうしているうちに新しい作曲のアイデアも徐々に溜まってきて、少しずつ新しい作曲にとりかかっています。いま頭の中にあるのは、たぶんピアノ曲か室内楽になるだろうと思いますが、いくつかの小品からなる組曲風のもので世界中に残る古代、石器時代の洞窟画、岩絵(ペトログリフ)に霊感を得たものです。また打楽器のための新作も少しずつ形をとりつつあります。

体調を崩して寝ている時、夢の中でいくつか不思議な音楽を聴きました。その体験は今後の私の作品に大きな影響を与えることでしょう。私は音楽の早期教育も受けていないし、深い教養もなく、また学校ではいつも成績が悪いものでした。しかし逆にそのおかげか「音楽はこうあるべき」という固定観念がなく、自由に曲を書いてきました。好き勝手流自由楽派。それでよかったと思います。

いま書いている作品は現在のところまだ発表の予定はありませんが、今年の秋から来年初めにかけて、またいくつかのコンサートを予定しています。お出かけ頂ければ幸いです。

3月3日の夢

 

みなさん、お元気ですか。

月日の流れるのは早いもので2017年も3月。今日は雛祭り。1月から2月は寒暖の差が激しかったものの、今日は雛祭りらしい、穏やかな日です。

昨晩、不思議な夢を見ました。チェロとも筝ともいえぬ(その両方を合わせたような)形の楽器を奏でている楽人の夢でした。しかし、その音というのが、チェロとも筝ともいえぬ(笑)・・・いや、全くそれらとは似ても似つかぬ不思議な響きで(記憶では弓で鳴らしているようでしたが)途中から複数の人の声も参入(明らかにクラシックの発声ではなかったです)して、清らかなのにどこかデモーニッシュな魅力のある、今までに私が聴いたことのない官能的な音楽でした。しかもそれは何らかの制約があるようには聴こえない、完全に自由な音楽(これこそ私の理想とする音楽です)に思え、それは延々と夢の中で続いたのです。私は夢の中で、この曲の作曲者の才能に嫉妬を覚えるほどでした。

目が覚めてしばらくその音楽を憶えていましたが、次第に鮮明なイメージは薄れてゆきました。しかしその音楽の形態、響きのイメージ、その音響の持つ天使とも悪魔とも言い難い多様なスピリチュアリティは今でも記憶の中にはっきりと残っています。何よりもそれは真の意味で完全な自由音楽が作曲可能なのだ、ということを私に教えてくれました。

もしかしたら、この夢は雛祭りの朝に五人囃子(笑)から私への贈り物だったのかもしれません。

・・・そういえば黒澤明の晩年の映画「夢」のなかにも雛祭りに因んだエピソードがありました。みなさま、よい桃の節句をお過ごし下さい。

もの思う葦

アメリカに新しい大統領が誕生した。彼の使う言葉のセンス、品位のなさ、その容姿などから決して人に好かれるタイプではない。しかしそんなことは本人もわかっているだろうし、だいたい人に好かれるために大統領になったわけでもなかろう。私が目にした限りではトランプ氏のことをよく言っているメディアはなかった。トランプ氏を批判することは簡単だ。しかし彼の言っていることのいくつかはごく当たり前の、常識的なことのように思える。

自分の国で使うものは自分の国で作る。これは地産地消の考え方だ。これについては食糧問題において見れば賛同する人は多いのではないか。たとえば食糧自給率の極端に低い日本は本当にこのままでよいのか。

移民、難民の問題。トランプ氏の言い方は確かに極端だ。しかしリベラル派が時々唱える「人は何でも分かり合える(はずだ)」という考え方は理想主義を通り越して私にはもはや「甘え」に思える。人と人の間に壁はいらない、という考え方も同様だ。美しい理想のように聞こえるので、それに反対する人はコチコチの保守主義者かファシストみたいに言われそうだが、私は人と人とは程よい距離を保って初めて友好的に付き合える、と考える。

私たちの暮らす日常において、この「程よい距離感」というものに明確な基準はなく、結局それはお互いのセンスにかかっている。つまり、そのセンスのない人が無作法に人の心に踏み込んできた場合、こちらで距離を取るか、心理的または(時には)物理的フェンスを設けざるをえない。

望ましい最高の関係とは精神的、経済的に自立した人同士がお互いを尊重しあい、ほどほどのおつきあいすることである。それぞれの国の文化、民族を何もかもフュージョンすることがインターナショナルということではないし仲が良いということではない。それぞれの民族、国家は経済的、文化的に自立して初めて他の国と対等に友好的に付き合える。これは日常の人間関係においても同様だ。自宅に他人が許可なく上がり込んで好き勝手なことを始めたら、誰だって嫌だろう。

もちろん移民、難民の問題は貧困や紛争が背景にあり、一朝一夕に解決する問題ではない。同情すべき点は多いものの、自分の国を脱出したいと思う人達が最終的に彼らが母国に戻り暮らせるように手助けすることが結局、唯一の解決策である。

 

2017年 新年のごあいさつ

2017年が明けました。昨年も内外に看過できない様々な問題が多く起きました。・・・地震そして度重なる大型の台風は狭い日本の国土と、そこに住む人たちの生活をずたずたに傷つけました。大型台風については背景に地球温暖化の問題があり、自然災害だから仕方がない、と言って片付けられるものではなく、人類共通の敵として世界は団結しなければならず、つまらない小競り合いをしている場合ではありません。国を背負って立つべき立場の者同士がまるで子供のけんかのような低レベルの言い争いをする場面が多いことも気になりました。人類は成熟するどころか幼児化が進んでいるのでしょうか。今年はいったいどういう年になるのでしょう。

恐れながら私の事に限って言いますと、昨年は音楽的には収穫の多い年でありました。アメリカ在住の前途有望なマリンバ奏者、岡村彩実さんとDe Simone氏に出会い、新作を提供できたことは大きな喜びでした。今後も彼らのために作品を書いてゆくと思います(既に複数のアイデアがあります)。また写真家・星野道夫さんへのオマージュとして作曲した新作の弦楽四重奏曲はおそらく、私のこれまでの作品の中で最も重要な曲と位置付けています。今年はこれらを新たな出発点として、次のステップに迷わず(そういえば最近、迷うという言葉自体を忘れていました。小さなレベルでの迷い、というよりベストを選択するための試行、思慮はありますけれどもね)、果敢に前進します。

いつも聴きに来て下さる聴衆の皆様、拙作を演奏して下さる第一級の演奏家の皆様に心からの感謝を送ります。どうか今年もよろしくお願い申し上げます。

今年が皆様にとって穏やかな年でありますように。

師走。

先日12月7日、東京オペラシティで行われた拙作初演を含むコンサートにお出で下さった皆様、年末のお忙しい中、ありがとうございました。楽しんで頂けたとしたら、とてもしあわせです。

演奏して下さった、弦楽四重奏のアンサンブル・ラインのみなさんのおかげで、私としてはここ数年間に書いた作品の中で最も重要な作品になったと思います(というより、これまで書いたすべての作品の中でも上位に属すると思います)。特に今回は敬愛する写真家・星野道夫さんの没後20年にちなみ、彼へのトリビュートとしての、特別な作品でありましたので、無事終わりまで書けて本当に本当に、よかった、と思います。

作曲に集中している間は風邪もひかないものですが、作品が完成し、演奏者に楽譜を送った後、ほんのちょっと気が緩んだわずかの隙に大風邪をひいてしまいました。本番までにはなんとか治しましたが、体力はいまだ戻らず、よく休養するようにしています。

今後は少し、小品や組曲のようなものをぽつぽつ書きつつ、次の大作に向け、構想を練ってゆくつもりです。

姉が薬剤師なのですが、ほんと、巷では風邪だのインフルエンザだの、あるいは他にもいろいろな病気(ノロウィルスとか)が流行っているみたいですね。みなさまもどうか健康に気をつけて、この冬を楽しく過ごしましょう。

コンサートのお知らせ

このたび、以下の日程でコンサートを開催し、新作を初演致します。

私の新作は最善を尽くし、自分らしい音楽になりました。出来栄えにほぼ満足しています。

お時間ありましたらぜひお出かけ下さい。

深新会第34回作品展

2016年12月7日(水)7:00PM開演/東京オペラシティ・リサイタル・ホール

入場料:3,500円

チケット/カンフェティ:0120-240-540(Web予約:http://confetti-web.com/)

マネージメント・お問い合わせ/楽友社:03-3443-0909

後援:日本現代音楽協会、社団法人日本作曲家協議会

プログラム:

中川俊郎 《ファンファーレ集 第1集》(2016)初演
曽我部清典(トランペット) 中川俊郎(一部ピアノ)

松尾祐孝 《フォノ第14番》~チェロ独奏の為の断章~(2016)初演
多井智紀(チェロ)

太田彌生 《麁妙 繪妙(あらたえ にぎたえ)》(2016)初演
姫本さやか(フルート) 中島久美(ヴィオラ)

野澤啓子 《Les mains jointes》~トロンボーンとピアノのために(2016)初演
村田厚生(トロンボーン) 野澤啓子(ピアノ)

河内琢夫 《風、河そして星々》~弦楽四重奏のための(2016)初演
手島志保(ヴァイオリン) 平岡陽子(ヴァイオリン)
東義直(ヴィオラ) 和田夢人(チェロ)

事前に私にご連絡頂ければ、一割引きでチケットをご用意させて頂きます。以下のアドレスまでご連絡下さい。

sonatineofspring@yahoo.co.jp

会場でお会いできることを楽しみにしております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もの思う葦

たしか倉本聰脚本のドラマ「北の国から」に主人公の五郎が自力で井戸を掘るエピソードがあったと思う。周囲の者たちは素人には無理だから業者に頼め、と言うが、五郎は金がないこともあるが、何よりも、ある確信があって自分で準備し作業に入る。が、水はなかなか出ない。さらに掘削しているうち、大きな岩にぶつかりそれを砕いて除去するのに大変な手間と時間がかかってしまう。周囲の者はあんなところから水が出るわけがない、と笑う。しかしある冬の夜、作業中に地の底から水の流れる音が聴こえ、やがて少しずつ水が湧きだし始める・・・

あくまで比喩ではあるが、作曲も井戸堀りに似たところがある。ここら辺りの地中に水脈があるだろうと目星をつけ、掘り始めるのは、このテーマ、領域に可能性があると信じて作曲を始めるのに似ている。しかし創作は必ずしもうまくゆくとは限らない。掘っても掘っても水が出ないこともあるし、途中、固い岩盤に突き当たることもある。どうも掘る場所を間違えたのではないか、これ以上掘っても意味がないのでは?早々に切り上げ、別の場所を掘った方がよいのではないか?・・・判断を迫られるところである。そんな訳で作業を続けるには最初に受けたインスピレーションと自分の感性を信じられなければならない。

私の個人的な経験と感覚から言うと、作曲の過程で地中から湧き出る水は生命力の奔流に他ならない。そしてその流れの湧出は大地およびコスミックなエネルギーと繋がったことを意味する。古代の人間が芸術、とりわけ音楽を発見あるいは作り出した最も原初的な理由、動機はここにあると考えている。あくまで私の手のひら、体で感じ取った個人的な意見であるが。

風、河そして星々・・・

いま私は、所属する作曲家グループ、深新会の作品展でこの冬初演予定の新作《風、河そして星々》~弦楽四重奏のための(2016)の作曲に取り組んでいる。取り組んでいる、といっても今まではほとんどがノートに構想のスケッチ、デッサンを書いてはボツ、また書いては・・・の繰り返しであったが、ようやく、まぁまんざらでもないか、と思える(全体の基礎となる)旋律素材をつかめたので、まもなく本格的な作曲に入る。つかみとった旋律素材はもちろん、私的にはまだパーフェクトなものではない。しかし今の私に出来る最善は尽くしたと思う。大事なのは力の出し惜しみをせず、ベストを尽くす、ということである。倒れる寸前までベストを尽くして、初めてまた次のステップ、道が見えてくるものかと思う。

とは言え、本当に大変なのはこれから。ものを作る、ということはとてもパワーが必要だ。なにしろ想念の中にしか存在しないものをこの現実の世界に引っ張り出してくるわけですから(笑)。創造とは純粋に体力の勝負と言えるだろう。続けていると筋肉と同じで心の筋力も付いてくるから面白い。

公演は本年12月7日(水)東京オペラシティ・リサイタル・ホールで午後7時。

 

国敗れて山河あり

・・・とは中国の有名な漢詩、「春望」の最初の一節。作者は杜甫。

国敗れて山河あり、城春にして草木深し。

戦乱によって都は破壊されても、山や河は依然として変わらず、春を迎えて草木が生い茂っている・・・

戦に敗れてもそんなこととは無関係に自然は変わらずそこにあり、永遠の時を刻んでいる、ということだろうか、人の世と自然とを対比して前者のはかなさと後者の永遠性を謳っているように思える。しかし今、日本は度重なる台風により山河は荒れ、人の心と体も深く傷ついている。山河が敗れれば人も敗れ、遠からず国もまた敗れる、ということを現代人(特に都市に住む人間)は忘れている。私たちにとって大地こそが全てである。自然が刻む時と営みは人の一生から見たら確かに永遠のように思えるかもしれない。しかしそのシステムはとてもこわれやすく、それは決して永遠のものではない。この台風は人間が作り出した地球温暖化によるものだ。地球の悲鳴が世の為政者たちには聴こえないのか。

追記:記憶では確か、かつてキース・ジャレットがこんなことを言っていた。「・・・もしもコスミックな音楽というものがあるとすれば、それは大地に根ざした音楽であるはずだ。この星がわれわれにとって最も身近なコスモスだからである」(細かな表現の違いは乞容赦!)。繰り返しになるが、私たちにとって大地こそが全てである。

 

もの思う葦

先日、私の3歳年下の従妹が亡くなった。癌であった。彼女はある音大でピアノを学んだが、卒業後は高校で音楽教師をしていた。音楽の授業の他、吹奏楽の指導やNPOの活動にも参加し、かなり多忙であったようだが、人を育てることに生きがいを感じ、充実した日々を送っていたそうである。2年前に病が発覚し、手術、薬物療法を行い、何度か入退院を繰り返したものの、最後まで仕事を続けた。最後の入院の時もベッドの上でテストの採点や次の授業の準備をし、また今はちょうど学校吹奏楽コンクールの季節だが、その応募の書類手続きが進んでいないことを最後まで気にしていたそうである。最後の最後まで音楽と自分の生徒たちのことを考えていたという。

彼女の人生は決して長いものではなく、やり残したことは多かったと思う。が、しかしほぼ完全燃焼した人生ではなかったか。子供の頃はともかく、お互い大人になってから会う機会は少なかった。だが私は彼女の生き方、そして(許される言い方であるなら)、人生の締めくくり方から、とても多くの学びを得る。